都市伝説!デスクワークするマヤ人を発見!古代マヤ文明のまとめマヤ文明は宇宙人が作った文明なのか?

マヤ文明とは、紀元前3世紀から紀元か後9世紀ごろまでメキシコ南東部を中心に栄えていた都市国家文明です。

「太陽の石」などで知られるアステカ文明とは別に?栄し、独自の文字体系や高度な天文学を発展させました。マヤ文明の文字はヒエログリフと呼ばれており、複雑な絵文字を組み合わせる体系が確立されています。

また、0の概念を理解するなど、かなり高い知識レベルにあったことがわかっているのです。

考古学では、大文明が誕生する必要条件として、次の3つをあげています。大河のほとりという地理的条件、車輪の発明、金属(主に鉄)の使用の3つです。

マヤ文明では車輪の理論は考えられていたものの、労働を重視して実用化はされておらず、この3つを1つも持たずに高度な文明を開いた…ということで大きな謎をはらんでいます。

完成された文字体系

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中南米で成立したインカ、アステカ文明などと混同されがちなマヤ文明ですが、パカル王などの名前は比較的有名です。

現在、この文明についての研究は順調に進んでいます。理由は古代のマヤ人が文字によって多くの記録を残していたからです。

ヨーロッパやアジアの多くの文明が簡単な象形文字から独自の文字体系を発展させていったのに対し、マヤ文明では完成された文字の体系が忽然と登場します。

都市国家の成立過程については小規模な集落から始まったことが分かっていますが、文字体系については成立過程を思わせる遺物が見つかっていないのです。

現存する文書の数が少ないこともありますが、誰に教わった訳でもなく高度で複雑な文字体系をどうやって発明したのか、もしくは何者かが文字に関する知識を与えたのか、真相は謎に包まれています。

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優れた天文学と幾何学の知識

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有名なチェチェンイッツァの遺跡にあるククルカン神殿では、春分の日と秋分の日に天から蛇の神様が下りてくるように見える影が浮かびあがる仕組みを備えています。

これは正確な暦を理解できていないと実現できません。

マヤの人々は天文学の知識から季節に周期性があることと、その目安となる春分/秋分の日を理解していました。

四方に階段が91段ずつ重ねられており、最上段の一段と合わせて

(91×4)+1=365

と、1年が365日であることを表現しています。

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また、「カラコル」という天文台では春分の日と秋分の日の太陽の方向を正確に示した窓が開けられており、暦を正確に測るのに使っていたと言われています。

現在の考古学の定説では、王はこの暦の知識に則って春分の日や秋分の日に儀式を行い、あたかも自分が神の使いであるかのように民衆に思い込ませることに使っていたとされます。

 

石を使った壮大な都市建設

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前述したとおり、マヤ文明では金属器を使用せず、石材加工も鋭い石を使って行っていました。比較的加工しやすい石灰石が多く取れたことも幸いしましたが、金属器を使わずに巨大な石を切り分け、必要な形状に加工したのには驚きを隠せません。

都市は「1:1.618」の黄金比(人間が最も美しいと感じる長さの比)に基づいて計画的に整備されており、住民の階級によって居住地域を振り分けるなどの都市計画も作られました。

また、車輪の技術を建設に応用することもなかったので石材の運搬はすべて人力で行われたとされています。

ククルカン神殿の蛇の頭の石などは1トンを優に超える重たい石です。

それを、傾斜がきついジャングルの山道で、本当に人力だけで運ぶことができたのか、疑問に思ってしまうほどです。

加えて、マヤの都市同士は同盟を組んだり征服して支配下に入ったりすると、「サクベ」と呼ばれる道によって繋がっていきました。

現代で言うところの幹線道路のようなものでしょうか。サクベは、まず両脇を大きな石で隔ててガードレールのようにし、その間に小さな石を敷き詰め、漆喰を縫って舗装されていたとされています。

サクベのすごいところは、その道がほとんど一直線にまっすぐ伸びていたことです。

長い道では100キロ近い長さがあり、当然、目的地の都市を目視することはできません。

現代であればGPSなどの機器を使って道を作ることが可能ですが、この時代にそれだけ長い距離をどうやって正確に測量して道を切り開いたのか、解明が進んでいる現在でも詳しいことはわかっていません。

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現代にも劣らない水道技術

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マヤ文明の中心都市、ティカルは河川から遠く離れていたため、6万人とも言われる莫大な人口の生活を賄うために多くの貯水池が作られました。

特筆すべきは、この水道技術です。

水路の幅を変化させることで水圧を調整して勾配を乗り越えさせたり、日干し煉瓦を使ってサウナ風呂のような施設の建設も行っていました。

飲み水に適した清流の水は栄養分が少なく農業用水に適さないことから、きれいな水は高いところの貯水池、比較的汚い水は低地の貯水池…など用途に応じて使い分けるなど工夫もしていたようです。

トウモロコシやカカオを栽培する農地では簡単な灌漑設備も用意され、家畜として飼っていた七面鳥の糞を肥料に使っていたとも言われています。

彼らの技術は本当に彼らが考えたのか

マヤ文明は周囲をジャングルに囲まれており、他の文化圏とは断絶した環境で発達した文明でした。

マヤの都市国家間では交流が見られましたが、例えば古代ローマと古代中国のような文明同士の交流は地理的にも不可能で、外界から知識や技術を伝えることは非常に難しい環境にあります。にも関わらず、極めて高度な天文学や測量の技術はどのようにして発明されたのでしょうか。

古代エジプトでも石材の運搬には丸太をローラーにして運んでいたと言われています。

神殿に使われた大きな石材は本当に人力だけで運ばれたのでしょうか?

文字にしろ技術にしろ、マヤの文化のほとんどが成立過程の痕跡が無く、突然完成した状態で製作されていることには非常に大きな違和感があります。現在の考古学では、このことについてはミステリーとされていますが、まるで、突然現れた何らかの文化圏の知識を、完成された状態で輸入したかのようです。

近隣の文明で類似した物が見つかっていないため、他の地域から知識や技術が持ち込まれたという可能性は低いでしょう

また、マヤ文明衰退後、類似の技術を使った文明が存在しないことから、マヤの人々が文明衰退当時どこへ行ったのかもわかっていません。

宇宙船らしきものに乗る人

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宇宙服らしきもの・・?

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パソコンらしきものに何かを打ち込むマヤ人(ブラウン管モニターかよ・・)

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マヤ文明の子孫とされる人々は現代にも生き残っているのですが、このあたりの伝承は残っておらず、彼らが本当にマヤ人の末裔であるかどうか、証明するには至っていません。

まるで、宇宙から突然下りてきて入植し、また順次宇宙へ帰って行ったかのように、マヤの遺跡には現代に繋がらない矛盾が生じているのです。

信じるか信じないかはあなた次第です。

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